日本語へ傾く時期に入りました

さいきん日本語ばかり聞いています。まあ、日本に住んでいる日本人なので当たり前といえば当たり前ですが、なんというか英語に対する"craving"がなくなってるこの頃で。ちょっと離れすぎちゃいましたかね。ここからもどすの大変だなーとか、もういいかなーとか、思ったり。


英語の曲聴いたりもするんですけど、聴いているうちに日本の曲聴きたくなって、そっちばかりになったり。わたしだけかもしれないんですけど、英語の曲と日本語の曲、耳のスイッチ変えるかんじになるんですよね。だからなんかチャンポンに聞けない。ラーメン食べてるのに、横からパンケーキ出てきたみたいな感じになってしまうんです。こないだAmazon musicでプレイリストみたいなの聴いてたら、Andy Grammer の次にかかった曲が、「めちゃくちゃJpopのアレンジっぽいわー。今こんなアレンジアメリカでもあるの?!」と驚いてでスマホ見たら、スキマスイッチかなんかで苦笑いでした。そういうプレイリストもあるんだなーと。


英語の曲はビートを聴くのに対し、日本語の曲の聞き方はそれとはぜんぜんちがう。それにやっぱり日本の歌謡曲はやっぱり『詩』ありきだなと個人的に感じます。その辺は英語のラップに近いかな。英語はビートが王様ですけど、日本の歌は「詩」の占める意味が大きい。その辺はやっぱり万葉集の時代から連綿とつづく、「和歌」の影響なのかなぁと思ったり。


『君の名は』で作中歌を手掛けたRadwimpsの曲にしても、歌詞がとてもリンクしていて、だからこそメロディーとあいまって胸に迫るものがあると感じます。人気の米津玄師さんの歌にしたって歌詞の情報量多いです。そう、日本語の楽曲って情報量多いですよね。詰め込まれる言葉の数も多いし、細かな言葉のチョイス、接尾辞やらで、細かいニュアンスも伝えられる。ああ、ここから女性視点になった、とか、ここは男性視点になったとか、場面展開が映像のようにできたり、名曲は広がる世界観が広い。

日本の曲だって、歌詞に重きを置いてない(とアーティスト自ら公言する)曲だってあるんですけど、全体的にみると詩の重要度はとても高いのではないかなぁ。その最右翼だったのが小沢健二だったのかなーと今になって思ったり。Flipper's Guitar 時代のメロディーラインは名曲からのサンプリングでつながれているものが多く(パクリパクリ言われまくってましたけど)、そこはそんなに重要ではなくて、詩が大事だった。『流動体について』も、情報量もはんぱなく、そして視点の移動が天才的で、聴いたとき腹が立つほどでした。


すいません、動画のサイズ後で直します 直しました。








先日の武道館ライブも、国際フォーラムも行けませんでした。友だちが誘ってくれたのですが、まだ自信がなくて辞退しました。


というわけで、最近は日本語の小説やマンガ(色々あたらしく発掘したりして)を読み漁ったり、曲を聴いたりして、英語への渇望が減っている時期に入っています。日本語への渇望がこんなに湧いてくるのが、なんか懐かしいです。
お小遣い全部本に使ってた中学生の頃を思い出します。


そのうちまた英語に傾くかな。そうだといいな。



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